2009年10月19日月曜日

マインドフルな生き方

『運命を拓く―天風瞑想録』は名著だ。実際、本書を読んで救われた人も多いはずである。

しかし他の著作も読んで天風教義をよくよく勉強して行くと、本書には書かれていない重要な部分がある。確かに『運命を拓く』には、「観念要素の更改法」も書かれているし、神経反射の調節法(クンバハカ)、積極観念の集中力養成法も書かれている(これらの詳しくは『真人生の探究』を参照)。

しかし『研心抄』に書かれているような、もっと具体的な方法については触れられていないのだ。

ここでいう「もっと具体的な方法」とは、天風教義でいう心と体に超越し、それらを統御している《霊魂》の働きである《意思》の力の発現を促す方法である。その方法のひとつが、何をするにも「気をこめて」行うという、有意注意の方法である。

曰く「かりそめ事と雖も一々いやしくもせずという心構えを実行に移し、真剣に気を打込んで万事に当るという心がけを営々として切磋琢磨し、完全に精神的筋骨を鍛え上げるようにしなければならない。」

このことに触れていない『運命を拓く』を読んだだけでは、どうしても拓かない人生があるということだ。つまり、簡単にいうと、『運命を拓く』に書かれているようなポジティブ思考だけでは足らないはずなのだ。

なんてことを考えていたとき絶妙のタイミングで、ほおじろえいいち『ポジティブ思考では、なぜ成功できないのか?』が出版された。

ほおじろ氏は、ポジティブ思考の限界を指摘し(否定ではない)、マインドフルという概念を提示する。実は、マインドフルという考え方は、天風教義の「注意」に関する教えに通じるものなのだ。




【この項 続く】

2009年10月7日水曜日

運命を拓く

中村天風『運命を拓く』(講談社)は、中村天風が夏の修練会において行った真理瞑想の内容を文字に起こしたもの。

ラージャヨガでは、師によって与えられた課題をひたすら座って考えるそうだ。自分で答えを得るまでに数ヶ月から、場合によっては数年の時間がかかる。しかし現代人にはそういう時間がないし、そういう修行のために生まれてきているわけではないので、天風師が悟った内容を瞑想している会員の前で語り、会員は、理性ではなく霊性意識で聞くことによって、悟った天風師と同じように真理に至れるというものだ。

本書を読むとぐいぐいと勇気が湧いてくる。抱えている問題がどんどん解決するような気がしてくる。

実際、これを読んで、感激の余りすぐに天風会に入会する人もいるようだ。

天風教義の入門編としては、最適の本でしょう。私は2冊持って、どこでも読めるようにしていた。



しかし、そもそも人間が、修行に生涯をかけるほどの時間を費やすのは間違っているんでしょうか。

2009年10月3日土曜日

鉄道料金は割高

asahi.comの記事より
高速無料化、JR7社が国交省へ異議「慎重に議論を」2009年10月2日23時16分

 JR7社は2日、国土交通省に対し、民主党が掲げる高速道路の無料化を慎重に議論するよう求める要望書を出した。

 要望書は、JR各社が省エネ車両の導入で環境に優しい鉄道づくりをしてきたとして「高速道路が無料化されれば、CO2排出量の増大は確実だ」と指摘。すでに高速料金の「上限千円」で利用客が減っており、「高速道路網と競合関係にある地方圏の都市間輸送などの鉄道ネットワークに大きな影響が生じ、国の交通体系を崩す」と主張している。


こういう要望を出す前に、鉄道料金を下げることを検討しないのだろうか。
検討して欲しいなあ。
(マスコミは、上のような垂れ流し記事を書くだけでなく、こういう突っ込みをいれなくてはならない。)

あるいは、何かプランを作ってください。
孫の顔をおじいちゃん、おばあちゃんに見せるにも、鉄道を使うと大金が飛ぶ。

2009年10月1日木曜日

How to Do

前の記事で書いたように、単に積極思考だけでは、物事はかわりません。たとえば、具体的に実現したいイメージを頭に思い浮かべるといっても、そのイメージが曇ったものだと、効果はないわけです。あるいは、ごくたまに思い出したときにイメージするだけではダメなのです。

そういう時に必要なのが、日常生活において積極思考をどのように実践するかという具体的な方法の問題です。

天風会では、中村天風の心身統一法がHow to Sayだけではなく、How to Doを教えられるユニークな教義だといいます。しかし、『引き寄せの法則』のウィリアム・W・アトキンソン(セロン・Q.デュモン)の本を読んだり、ダスカロス-The Researchers of Truth-のサイトをみても、十分なHow to Doがある教義はほかにもあるといえます。

霊的な成長を促す具体的な実践法、エクササイズについて探究して行こうと思います。

2009年9月28日月曜日

中村天風の教義

買ってはいたけどなかなか読めなかった(というか、頭に入って来なかった)中村天風の『研心抄』。ようやくじっくり時間をかけて読んでみました。これは、必読です。

本書は数ある自己啓発本の中でも古典の部類に入りますが、現在でも十分に価値のある一冊です。単なるポジティブ・シンキングじゃだめな理由が書かれています。ポジティブ本に読み飽きた方は必読です。

『引き寄せの法則』のウィリアム・W・アトキンソンに影響を受けたと、林陽氏は書かれていますが、根拠はいかに?しかし両者を読み比べるとわかりますね。アトキンソン(ヨギ・ラマチャラカ名義のものを含む)と天風の関係については、改めて書こうと思います。

2009年9月2日水曜日

消費者庁長官人事の問題

消費者庁初代長官に旧建設省OBである内田俊一・元内閣府事務次官を就任した。

民主党はこれに反対し、やめさせようとするだろう。

こうした政治家による官僚の介入に対し、国家公務員法で長官の身分は保障されているので、政治的な圧力で辞めさせることはできないという意見が、特に官僚から出る。・・・と新聞では解説される。

あくまで法律の上ではそうだ。

しかしねえ、一向に解決できない天下りというシステムの根本的な背景が、事務次官の同期は一斉にやめなければならないという、法律でもなんでもない慣習によるものであることを考えると、官僚の側の考え方ひとつということになる。

マスコミも、反対の動きに対して、官僚が持ち出す法律上の根拠等云々をそのまま垂れ流すんじゃなくて、やめさせるべきかどうか、はっきり意見として示したらどうなのか。もっと自分のやるべき仕事というのをきちんと自覚しようよ、新聞記者のみなさん。

2009年8月28日金曜日

最高裁の裁判官を審査しよう

なぜだかマスコミはほとんど触れないけれど、議員の選挙や官僚制度の改革と同じくらい大切なこと。だって三権分立のひとつである司法を担っているんだから。何というか、冤罪事件の多発や何故か重大化しない押尾問題などみていて、司法制度のほころびも明らかになってきてるんじゃないでしょうか。

というわけで・・・(以下、引用)

来たる8月30日の衆院選と同時に行われる最高裁判所裁判官の国民審査で、「4人の最高裁裁判官に×(バツ)を与える国民運動」を行うことを提案します。副島隆彦 2009.8.10

 前回の今日のぼやき「1058」番でお知らせしたとおり、現在、不当な裁判を次々に行い、「国家の暴走」の主要な要素となっている最高裁判所の裁判官たちの中で、私たちが特に問題があると考える、以下の4人の裁判官に対し、来たる8月30日の国民審査(衆議院選挙と同時に行われる)で、×(バツ)をあたえる運動  を始めたいと思います。

 名付けて、「4人の最高裁裁判官たちに国民審査で×(バツ)を与える国民運動」 です。

 ×(バツ)を「つける」のではなくて、国民が彼らに「罰(×、バツ)をあたえる」のです。 私たちが、今回 ×(バツ)を与えるべきだと考えるのは以下の4人です。

× 竹崎博允 (たけざきひろのぶ、2008年11月25日から最高裁長官、東京大学法学部卒 、裁判官出身)

× 那須弘平 (なすこうへい、東京大学法学部卒 、弁護士)

× 近藤崇晴 (こんどうたかはる、東京大学法学部卒 、裁判官)

× 竹内行夫 (たけうちゆきお、京都大学法学部卒 、外交官)

 以上の4人です。私たちのこの判断に、ご賛同くださいますようお願い申し上げます。今回、国民審査を受けるのは9人の裁判官ですが、そのうちの4人に限定することに意味があると思います。

 そして、私たちのこの考えに賛同してくださる人は、、どうぞ、私たちのこのページを、ご自身のホームページやブログにどんどん 貼り付けて、公表してください。ひとりでも多くの日本国民に、この国民運動を知らせてください。よろしくお願いします。


(引用以上。「副島隆彦の学問道場」今日のぼやき1060より )

あと、掲示板[1301] の記事も必読です。

民主圧勝報道が気持ち悪い。とにかく私は選挙に行きますよ。

2009年7月27日月曜日

なんでこんな記事が・・・

朝日新聞の記事より

湾岸署課長役・俳優の小野武彦さんがパトカーと接触事故

いつも思うんだが、こんな記事をわざわざ掲載する価値ってあるんだろうか。
別にケガをしたとか、薬物を持ってたとか、たいした話題でもないじゃないか。

もっと他に取材して記事にするものってあるんじゃないのかね。

警察からもらうネタの比率をもっと少なくできませんか。

2009年4月22日水曜日

パノプティコンの身体

自分で自分の身体のことがわからない。現代人は自分の身体を、医者や科学者、メディアのいうことのみを通して理解している。現在の自分の状況は、自分ではなく、外部にいる人こそがよく理解しているということだ。

つまりこのことは、ミシェル・フーコーがいう、一望監視施設=パノプティコンのシステムそのものではないか。監獄では、中央の監視室から放射状に建物が伸びていて、その先に監獄が配置されている。明かりで照らされた獄室内の様子は、中央の監視室からはよく見えるが、獄室からは、真っ暗な監視室の様子を知ることはできない。つまり囚人たちは、監視人が実際に自分をみているかどうかは知ることができず、観られているかも知れないという不安は、常に観られていると幻想を抱かせることになる。こうして囚人は、監視下に相応しい従順な行動を内面化する。

現代人の身体をめぐる状況はまさにこのことではないか。獄室内を照らす光は、まさに人体に関する科学の言説だ。科学の言説の対象として浮かび上がった身体については、みえるが、当の科学的言説が、自分の身体について本当に語っているかどうかは定かではない。しかし、科学がすべてを説明できる(しているはずだ)という幻想は、本人が科学の言説を操作し得ないが故に、身体についての自らによる判断を放棄させる。

2009年4月21日火曜日

身体についてのふしぎ

世の中どうもおかしいことが多すぎる。人間が作る世の中だから、おかしいことがあるのは当然なのだが、さしあたり私が生活するうえで我慢のならないおかしさについて書いておこう。

それは、自分の身体について、自分のものであるにも関わらず、自分で判断できないことである。

あるとき、腕の皮膚の中に、ぷっくりとした塊ができた。これは何なのか。腫瘍なのか。だとしたたら、良性なのか、悪性なのか、自分では判断できない。医者に行かないと、わからない。そもそも、「腫瘍」とか、「悪性」とか、「良性」とか、そんな言葉さえも、医者が作り出した言葉で、私にはよくわからない。おい、その異物よ、貴様は僕にとって悪さをするのか、何もしないのか、放っておいても構わないのか。異物は何もいわない。

食品添加物は気持ち悪い。身体に悪いといわれる。でも厚生労働省は、十分な臨床実験を経て認証されたものであり、人体への影響はないと言い切る。さて、摂っていいのかわるいのか。口に入れて体調に異変が生じれば身体に悪いということになり、やめればいいのだが、おそらく身体の微妙な変調には気づくことは難しいだろう。だったら、気にしないで食べればではないかといわれそうだが、気になってしまう。一方で、食品添加物の未知の怖さを言う人もいる。

一円玉健康法、紅茶キノコ、ノーパン健康法などの様々な健康法と、ぶら下がり健康器に、アブトロニックなどの健康・ダイエット器具。世には「画期的な」方法や器具が定期的に現れ、健康雑誌や朝のワイドショーやテレビショッピングが嬉々としてとりあげ、人々は、それに飛びつく。最近では、タオル健康法だ。しかし時とともにこれらは忘れ去られ、効果はなかったという思いとともに、世の中から忘れ去られてしまう。もちろん、時間を経ても、継続している人もいる。そしてその健康法のおかげで、健康を保っているという。しかしそういう人は少数派で、大多数の人は、流行の健康法や健康器具を次々と忘れ去っていく。効果について、自分で確かめることもせず、メディアが流す情報に踊らされるだけなのだ。

「消費期限切れの・・・」という事件が、一斉を風靡した。消費期限を過ぎたら、食べられないのだろうか。もちろん、うそをつくことはよくないことだが、消費期限に神経質になっていないか。提供者が大丈夫だと判断して、提供されたものなら、信用してはいけないのか。もっとも、その提供者のモラルが低下しているのは事実のようであるが・・・。食べてよいのか悪いのか、ここでもその指標は、感覚によるものではなく、日付という情報である。

人は、自分の身体について自分で判断ができないのである。おかしくないか。

人々は、自分の身体が語る言葉ではなく、医者や科学者やメディアの言葉に耳を傾け、それを信用する。自分の身体なのに、信用ができないのか。 

できないのである。現代人の不幸のひとつがここにある。

・・・というのが、大学院時代の終わりに私がゼミで発表したものだ。発表の反応は思わしくなかったが、自分の真摯な思いを表現した満足感だけは、覚えている。その後、研究テーマに紆余曲折があったが、どうやら同じ問いの周りをぐるぐる回っているようだ。もう少し探求を進めてみよう。

2009年3月3日火曜日

2009年大予想

景気は、4月には底を打つが、V字回復とはいわず、ゆるやかな回復基調へと向かう。景気はもはや循環はせず、市場というものへの慎重な態度が常態となる。変わって人間の判断(理性ではない)への信頼が増大する。

2009年1月27日火曜日

エリート

エリートとは、エリート以外は存在しないか、あるいは矯正すべき対象であるのみで、政策として考慮すべき対象ではないと考える人たちのことである。「民間人」委員に求められるのは、一般大衆の視点であり、官僚や政治家と結託して彼らと同じ視線で考えるエセ民間人委員なんてクソである。

2009年1月24日土曜日

フロー 楽しみの社会学

チクセント・ミハイによるフロー概念は、大衆文化を考察するのに有力な概念である。

2009年1月23日金曜日

カルチュラル・スタディーズの真髄とは

カルチュラル・スタディーズの真髄とは、大衆の生活、行動を、権力との関係でとらえることであるといわれる。あるいは、十把一絡に捕らえられがちな大衆の意識とやらを、、空間的、時間的に割っていくこと。本来は多様であるはずの大衆の意識が、あたかも集合的、画一的な性格をもったものであるかのように見えている状態を、割っていくこと。

2009年1月21日水曜日

大衆文化と人間の生命力

20世紀初頭の大衆文化について研究してみたい。大衆文化とは、大衆に活力をいれるはずのものである。これは文化の消費者のみならず、提供者にしても同様だ。商品としての文化を生産するものも、消費するものも、その活動を通して生命力を回復させる。大衆文化とはそのようなものだ。そして、生命力の復活をともなった娯楽こそ、真の余暇(ヨゼフ・ピーパー)である。

然るに、そのような活力の源泉としての大衆文化は、産業化の進展とともに衰えてしまった。それは、文化の工場化が進んだからである。提供される文化は工場で生産され、消費の場も工場となってしまった。

例えば居酒屋を考えてみよう。食材は工場で加工され、ひどい場合は、完成品に近い状態で店舗に送られる。野菜は刻まれて無菌消毒パックされた状態で、フライ類は衣をつけて、煮物は完成品をビニールパックされた状態で出荷される。お店でやることといえば、パックをあけて焼いたり揚げたり、ひどい場合は盛り付けたりするだけだ。

お客はといえば、これまた工場で企画・製造されたテーブルに、マニュアル化されたスタッフのサービスを受けるだけである。

工場での企画された行為のやり取りで構成された儀式には、生命力の復活は期待できない。

2009年1月16日金曜日

用語辞典(→ウィキペディアへのリンク)【身体文化編】

整体
武道
空手
合気道
大日本武徳会
嘉納治五郎
植芝盛平
グレイシー柔術
前田光世

スポーツと飲み屋とフーゾクと

どれもスポーツ新聞、夕刊紙のネタであり、大衆文化の極みだ。
男にとっての、真の余暇の時間である。

なぜスポーツ新聞を読むのか。一般紙のスポーツ面ではないところがポイントだ。あのプレーの瞬間、選手は何を考えていたのか、プレーの前日、何をしていたのか。「プレー」を「決断」に、「選手」を「政治家」に置き換えると、スポーツ紙の中の政治記事だ。
新聞記事の内容は、一般紙とスポーツ紙で異なる。一般紙の場合は、結果に重点をおいた記述をとるが、スポーツ紙や夕刊紙では、日々の経過を報道する記事で内幕が描かれる。ココがポイントだ。

同僚の本音を探る、飲み屋で話す内容と同じである。

日常の中のハレの場。

2009年1月9日金曜日

やる気

やる気があるとかないとかじゃない。やるんだ。

・・・確かにそうなんだけど、やる気が起こらないは本人が悪いのじゃなくて(そういうこともあるかも知れないけれど)、やはり力が湧いてこないという(病気も含めた)本人の状態は、動かしがたい事実なのだ。そういう人に、いくら「やるんだ!」っていったって、どうしようもない。

じゃあ、どうすればよいか。力が湧いてくるように導いてあげればいいのだ。そのためにも、まず好きなことをさせるのが一番。そしてその好きなことをどのように社会的な方向に向けさせるかがポイントだ。少しベクトルをずらすのだ。