20世紀初頭の大衆文化について研究してみたい。大衆文化とは、大衆に活力をいれるはずのものである。これは文化の消費者のみならず、提供者にしても同様だ。商品としての文化を生産するものも、消費するものも、その活動を通して生命力を回復させる。大衆文化とはそのようなものだ。そして、生命力の復活をともなった娯楽こそ、真の余暇(ヨゼフ・ピーパー)である。
然るに、そのような活力の源泉としての大衆文化は、産業化の進展とともに衰えてしまった。それは、文化の工場化が進んだからである。提供される文化は工場で生産され、消費の場も工場となってしまった。
例えば居酒屋を考えてみよう。食材は工場で加工され、ひどい場合は、完成品に近い状態で店舗に送られる。野菜は刻まれて無菌消毒パックされた状態で、フライ類は衣をつけて、煮物は完成品をビニールパックされた状態で出荷される。お店でやることといえば、パックをあけて焼いたり揚げたり、ひどい場合は盛り付けたりするだけだ。
お客はといえば、これまた工場で企画・製造されたテーブルに、マニュアル化されたスタッフのサービスを受けるだけである。
工場での企画された行為のやり取りで構成された儀式には、生命力の復活は期待できない。
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