2009年10月1日木曜日

How to Do

前の記事で書いたように、単に積極思考だけでは、物事はかわりません。たとえば、具体的に実現したいイメージを頭に思い浮かべるといっても、そのイメージが曇ったものだと、効果はないわけです。あるいは、ごくたまに思い出したときにイメージするだけではダメなのです。

そういう時に必要なのが、日常生活において積極思考をどのように実践するかという具体的な方法の問題です。

天風会では、中村天風の心身統一法がHow to Sayだけではなく、How to Doを教えられるユニークな教義だといいます。しかし、『引き寄せの法則』のウィリアム・W・アトキンソン(セロン・Q.デュモン)の本を読んだり、ダスカロス-The Researchers of Truth-のサイトをみても、十分なHow to Doがある教義はほかにもあるといえます。

霊的な成長を促す具体的な実践法、エクササイズについて探究して行こうと思います。

2009年9月28日月曜日

中村天風の教義

買ってはいたけどなかなか読めなかった(というか、頭に入って来なかった)中村天風の『研心抄』。ようやくじっくり時間をかけて読んでみました。これは、必読です。

本書は数ある自己啓発本の中でも古典の部類に入りますが、現在でも十分に価値のある一冊です。単なるポジティブ・シンキングじゃだめな理由が書かれています。ポジティブ本に読み飽きた方は必読です。

『引き寄せの法則』のウィリアム・W・アトキンソンに影響を受けたと、林陽氏は書かれていますが、根拠はいかに?しかし両者を読み比べるとわかりますね。アトキンソン(ヨギ・ラマチャラカ名義のものを含む)と天風の関係については、改めて書こうと思います。

2009年9月2日水曜日

消費者庁長官人事の問題

消費者庁初代長官に旧建設省OBである内田俊一・元内閣府事務次官を就任した。

民主党はこれに反対し、やめさせようとするだろう。

こうした政治家による官僚の介入に対し、国家公務員法で長官の身分は保障されているので、政治的な圧力で辞めさせることはできないという意見が、特に官僚から出る。・・・と新聞では解説される。

あくまで法律の上ではそうだ。

しかしねえ、一向に解決できない天下りというシステムの根本的な背景が、事務次官の同期は一斉にやめなければならないという、法律でもなんでもない慣習によるものであることを考えると、官僚の側の考え方ひとつということになる。

マスコミも、反対の動きに対して、官僚が持ち出す法律上の根拠等云々をそのまま垂れ流すんじゃなくて、やめさせるべきかどうか、はっきり意見として示したらどうなのか。もっと自分のやるべき仕事というのをきちんと自覚しようよ、新聞記者のみなさん。

2009年8月28日金曜日

最高裁の裁判官を審査しよう

なぜだかマスコミはほとんど触れないけれど、議員の選挙や官僚制度の改革と同じくらい大切なこと。だって三権分立のひとつである司法を担っているんだから。何というか、冤罪事件の多発や何故か重大化しない押尾問題などみていて、司法制度のほころびも明らかになってきてるんじゃないでしょうか。

というわけで・・・(以下、引用)

来たる8月30日の衆院選と同時に行われる最高裁判所裁判官の国民審査で、「4人の最高裁裁判官に×(バツ)を与える国民運動」を行うことを提案します。副島隆彦 2009.8.10

 前回の今日のぼやき「1058」番でお知らせしたとおり、現在、不当な裁判を次々に行い、「国家の暴走」の主要な要素となっている最高裁判所の裁判官たちの中で、私たちが特に問題があると考える、以下の4人の裁判官に対し、来たる8月30日の国民審査(衆議院選挙と同時に行われる)で、×(バツ)をあたえる運動  を始めたいと思います。

 名付けて、「4人の最高裁裁判官たちに国民審査で×(バツ)を与える国民運動」 です。

 ×(バツ)を「つける」のではなくて、国民が彼らに「罰(×、バツ)をあたえる」のです。 私たちが、今回 ×(バツ)を与えるべきだと考えるのは以下の4人です。

× 竹崎博允 (たけざきひろのぶ、2008年11月25日から最高裁長官、東京大学法学部卒 、裁判官出身)

× 那須弘平 (なすこうへい、東京大学法学部卒 、弁護士)

× 近藤崇晴 (こんどうたかはる、東京大学法学部卒 、裁判官)

× 竹内行夫 (たけうちゆきお、京都大学法学部卒 、外交官)

 以上の4人です。私たちのこの判断に、ご賛同くださいますようお願い申し上げます。今回、国民審査を受けるのは9人の裁判官ですが、そのうちの4人に限定することに意味があると思います。

 そして、私たちのこの考えに賛同してくださる人は、、どうぞ、私たちのこのページを、ご自身のホームページやブログにどんどん 貼り付けて、公表してください。ひとりでも多くの日本国民に、この国民運動を知らせてください。よろしくお願いします。


(引用以上。「副島隆彦の学問道場」今日のぼやき1060より )

あと、掲示板[1301] の記事も必読です。

民主圧勝報道が気持ち悪い。とにかく私は選挙に行きますよ。

2009年7月27日月曜日

なんでこんな記事が・・・

朝日新聞の記事より

湾岸署課長役・俳優の小野武彦さんがパトカーと接触事故

いつも思うんだが、こんな記事をわざわざ掲載する価値ってあるんだろうか。
別にケガをしたとか、薬物を持ってたとか、たいした話題でもないじゃないか。

もっと他に取材して記事にするものってあるんじゃないのかね。

警察からもらうネタの比率をもっと少なくできませんか。

2009年4月22日水曜日

パノプティコンの身体

自分で自分の身体のことがわからない。現代人は自分の身体を、医者や科学者、メディアのいうことのみを通して理解している。現在の自分の状況は、自分ではなく、外部にいる人こそがよく理解しているということだ。

つまりこのことは、ミシェル・フーコーがいう、一望監視施設=パノプティコンのシステムそのものではないか。監獄では、中央の監視室から放射状に建物が伸びていて、その先に監獄が配置されている。明かりで照らされた獄室内の様子は、中央の監視室からはよく見えるが、獄室からは、真っ暗な監視室の様子を知ることはできない。つまり囚人たちは、監視人が実際に自分をみているかどうかは知ることができず、観られているかも知れないという不安は、常に観られていると幻想を抱かせることになる。こうして囚人は、監視下に相応しい従順な行動を内面化する。

現代人の身体をめぐる状況はまさにこのことではないか。獄室内を照らす光は、まさに人体に関する科学の言説だ。科学の言説の対象として浮かび上がった身体については、みえるが、当の科学的言説が、自分の身体について本当に語っているかどうかは定かではない。しかし、科学がすべてを説明できる(しているはずだ)という幻想は、本人が科学の言説を操作し得ないが故に、身体についての自らによる判断を放棄させる。

2009年4月21日火曜日

身体についてのふしぎ

世の中どうもおかしいことが多すぎる。人間が作る世の中だから、おかしいことがあるのは当然なのだが、さしあたり私が生活するうえで我慢のならないおかしさについて書いておこう。

それは、自分の身体について、自分のものであるにも関わらず、自分で判断できないことである。

あるとき、腕の皮膚の中に、ぷっくりとした塊ができた。これは何なのか。腫瘍なのか。だとしたたら、良性なのか、悪性なのか、自分では判断できない。医者に行かないと、わからない。そもそも、「腫瘍」とか、「悪性」とか、「良性」とか、そんな言葉さえも、医者が作り出した言葉で、私にはよくわからない。おい、その異物よ、貴様は僕にとって悪さをするのか、何もしないのか、放っておいても構わないのか。異物は何もいわない。

食品添加物は気持ち悪い。身体に悪いといわれる。でも厚生労働省は、十分な臨床実験を経て認証されたものであり、人体への影響はないと言い切る。さて、摂っていいのかわるいのか。口に入れて体調に異変が生じれば身体に悪いということになり、やめればいいのだが、おそらく身体の微妙な変調には気づくことは難しいだろう。だったら、気にしないで食べればではないかといわれそうだが、気になってしまう。一方で、食品添加物の未知の怖さを言う人もいる。

一円玉健康法、紅茶キノコ、ノーパン健康法などの様々な健康法と、ぶら下がり健康器に、アブトロニックなどの健康・ダイエット器具。世には「画期的な」方法や器具が定期的に現れ、健康雑誌や朝のワイドショーやテレビショッピングが嬉々としてとりあげ、人々は、それに飛びつく。最近では、タオル健康法だ。しかし時とともにこれらは忘れ去られ、効果はなかったという思いとともに、世の中から忘れ去られてしまう。もちろん、時間を経ても、継続している人もいる。そしてその健康法のおかげで、健康を保っているという。しかしそういう人は少数派で、大多数の人は、流行の健康法や健康器具を次々と忘れ去っていく。効果について、自分で確かめることもせず、メディアが流す情報に踊らされるだけなのだ。

「消費期限切れの・・・」という事件が、一斉を風靡した。消費期限を過ぎたら、食べられないのだろうか。もちろん、うそをつくことはよくないことだが、消費期限に神経質になっていないか。提供者が大丈夫だと判断して、提供されたものなら、信用してはいけないのか。もっとも、その提供者のモラルが低下しているのは事実のようであるが・・・。食べてよいのか悪いのか、ここでもその指標は、感覚によるものではなく、日付という情報である。

人は、自分の身体について自分で判断ができないのである。おかしくないか。

人々は、自分の身体が語る言葉ではなく、医者や科学者やメディアの言葉に耳を傾け、それを信用する。自分の身体なのに、信用ができないのか。 

できないのである。現代人の不幸のひとつがここにある。

・・・というのが、大学院時代の終わりに私がゼミで発表したものだ。発表の反応は思わしくなかったが、自分の真摯な思いを表現した満足感だけは、覚えている。その後、研究テーマに紆余曲折があったが、どうやら同じ問いの周りをぐるぐる回っているようだ。もう少し探求を進めてみよう。