2009年4月22日水曜日

パノプティコンの身体

自分で自分の身体のことがわからない。現代人は自分の身体を、医者や科学者、メディアのいうことのみを通して理解している。現在の自分の状況は、自分ではなく、外部にいる人こそがよく理解しているということだ。

つまりこのことは、ミシェル・フーコーがいう、一望監視施設=パノプティコンのシステムそのものではないか。監獄では、中央の監視室から放射状に建物が伸びていて、その先に監獄が配置されている。明かりで照らされた獄室内の様子は、中央の監視室からはよく見えるが、獄室からは、真っ暗な監視室の様子を知ることはできない。つまり囚人たちは、監視人が実際に自分をみているかどうかは知ることができず、観られているかも知れないという不安は、常に観られていると幻想を抱かせることになる。こうして囚人は、監視下に相応しい従順な行動を内面化する。

現代人の身体をめぐる状況はまさにこのことではないか。獄室内を照らす光は、まさに人体に関する科学の言説だ。科学の言説の対象として浮かび上がった身体については、みえるが、当の科学的言説が、自分の身体について本当に語っているかどうかは定かではない。しかし、科学がすべてを説明できる(しているはずだ)という幻想は、本人が科学の言説を操作し得ないが故に、身体についての自らによる判断を放棄させる。

2009年4月21日火曜日

身体についてのふしぎ

世の中どうもおかしいことが多すぎる。人間が作る世の中だから、おかしいことがあるのは当然なのだが、さしあたり私が生活するうえで我慢のならないおかしさについて書いておこう。

それは、自分の身体について、自分のものであるにも関わらず、自分で判断できないことである。

あるとき、腕の皮膚の中に、ぷっくりとした塊ができた。これは何なのか。腫瘍なのか。だとしたたら、良性なのか、悪性なのか、自分では判断できない。医者に行かないと、わからない。そもそも、「腫瘍」とか、「悪性」とか、「良性」とか、そんな言葉さえも、医者が作り出した言葉で、私にはよくわからない。おい、その異物よ、貴様は僕にとって悪さをするのか、何もしないのか、放っておいても構わないのか。異物は何もいわない。

食品添加物は気持ち悪い。身体に悪いといわれる。でも厚生労働省は、十分な臨床実験を経て認証されたものであり、人体への影響はないと言い切る。さて、摂っていいのかわるいのか。口に入れて体調に異変が生じれば身体に悪いということになり、やめればいいのだが、おそらく身体の微妙な変調には気づくことは難しいだろう。だったら、気にしないで食べればではないかといわれそうだが、気になってしまう。一方で、食品添加物の未知の怖さを言う人もいる。

一円玉健康法、紅茶キノコ、ノーパン健康法などの様々な健康法と、ぶら下がり健康器に、アブトロニックなどの健康・ダイエット器具。世には「画期的な」方法や器具が定期的に現れ、健康雑誌や朝のワイドショーやテレビショッピングが嬉々としてとりあげ、人々は、それに飛びつく。最近では、タオル健康法だ。しかし時とともにこれらは忘れ去られ、効果はなかったという思いとともに、世の中から忘れ去られてしまう。もちろん、時間を経ても、継続している人もいる。そしてその健康法のおかげで、健康を保っているという。しかしそういう人は少数派で、大多数の人は、流行の健康法や健康器具を次々と忘れ去っていく。効果について、自分で確かめることもせず、メディアが流す情報に踊らされるだけなのだ。

「消費期限切れの・・・」という事件が、一斉を風靡した。消費期限を過ぎたら、食べられないのだろうか。もちろん、うそをつくことはよくないことだが、消費期限に神経質になっていないか。提供者が大丈夫だと判断して、提供されたものなら、信用してはいけないのか。もっとも、その提供者のモラルが低下しているのは事実のようであるが・・・。食べてよいのか悪いのか、ここでもその指標は、感覚によるものではなく、日付という情報である。

人は、自分の身体について自分で判断ができないのである。おかしくないか。

人々は、自分の身体が語る言葉ではなく、医者や科学者やメディアの言葉に耳を傾け、それを信用する。自分の身体なのに、信用ができないのか。 

できないのである。現代人の不幸のひとつがここにある。

・・・というのが、大学院時代の終わりに私がゼミで発表したものだ。発表の反応は思わしくなかったが、自分の真摯な思いを表現した満足感だけは、覚えている。その後、研究テーマに紆余曲折があったが、どうやら同じ問いの周りをぐるぐる回っているようだ。もう少し探求を進めてみよう。