2008年7月24日木曜日

少しずつ、できるところから、

面倒でいやな仕事でも、とりあえず、
どんな小さな部分からでもいいから着手してみよう。
実際に手を動かして作業を進めよう。

調べなきゃいけないことがあったら、
面倒がらずに調べよう。

時間がきたら、はい、それまで。

2008年7月22日火曜日

やる気を出す方法は・・・

どうも仕事がはかどらない、集中できない。
集中できないのは他動性・・・とかいう病気だろうか?
それとも一生の仕事に出会っていないから?

集中できない、そんなときは図書館に行く、喫茶店に行く。
なんでもいいから、集中できる環境を作ってみよう。
コーヒーを飲む。紅茶を飲む。コーラを飲む。緑茶を飲む。
2杯飲む。3杯飲む。体操をする。マルクスを読む。

いろいろ試してみよう。

その成果の積み重ねで立ち現れるのが、探しているあなた自身だ。

2008年5月23日金曜日

大衆文化史

大衆文化史とはいっても、僕の大衆文化は、生身のからだをもった大衆の文化だ。大衆はどこに自分のからだを運んで、どんな空間で音楽を聴いていたのか、酒を飲んでいたのか、スポーツを楽しんでいたのか、のんびりしていたのか。

2008年5月18日日曜日

法則

世界を裏で操り、ある方向に導く法則はない。法則があるのではなく、たまたま今あるような仕組みで動いているだけである。世界とはすべからく、水の濁りが沈殿してたまった泥のような秩序である。水のブラウン運動と、重力、シンプルな運動法則の結果、たまたまできあがった形象である。今あるような泥の形へと形成するような法則はない。シンプルな運動法則の結果、たまたまそうなったのである。人生もすべからく同じである。非常にシンプルな法則のみが働いていて、その結果、今ある生活があるだけである。

2008年5月10日土曜日

コミュニケーション上の敬意の扱い方について

コミュニケーションのあり方について

議論や雑談の過程で、目の前の相手に自分の意見を開陳するというのは、どうも後味が悪い。自分の意見を開陳するという行為の背後には、どうも自分を大きく見せようという美しくない欲望があるようだ。敬意を自分に集めたい人の行為だ。

論争とは、自分が正しい側に立っていると考えて、そこから相手の間違いを叩きのめすことだったりする。相手の考えの全体のうち、自分の立ち位置(あるいは当座の意識内容)から見えない部分を対話を通じて探り出し、相手の考えを理解すること。背後には、相手への敬意がある。これが正しい学問的姿勢ではないのか。

敬意は集めるものではなく、自分から払うもの。

2008年5月2日金曜日

つまるところ・・・

つまるところ僕の研究ってぇのはこういうことだ。
ある人の働きにより世の中がどう変わったかということ。その結果、それまであったものがなくなり、新しくでてきたものもあっただろう。現在が今あるようにできあがり、別のあり方にならなかったのはなんでだろう?これを人物の働きから見てみるんだ。法律によって世の中が変わるってこともあるんだけど、その法律だって誰かが苦労して作るんだから。
なに?ひとりの働きで歴史が動くわけじゃないって?もちろん、誰だっていろんな人に助けられて仕事をするもんだ。でも、ひとりの働きの大きさを馬鹿にするもんじゃないよ。あんただって自分の仕事に歴史を動かす意味があると思えばやる気も違ってくるだろ?
(『ある博士の記憶』)

2008年4月4日金曜日

大衆文化

大衆文化を議論する際、なぜ消費する側ばかりに焦点が当てられるのだろうか。そんなに両者を分けられるものかどうかという問題はあるにせよ、大衆文化にも、それを提供する側と享受する側が存在する。

大衆文化論というと、もっぱら酒を飲んだり、映画や演劇を観たりといった消費の側面にばかり目が向いている。

大衆文化は時代を形成する。そして、大衆文化を生産する形態と、消費する形態の両者が重要な役割を果たす。